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病院の沿革

 昭和34年10月1日、健康保険法の改正によって国民皆保険が施行され、当時岐阜県厚生農業協同利用組合連合会立病院であった西濃病院は大垣市に譲渡され、市民病院としての新しい第一歩をふみだした。以来、進歩する医学、医術、多様化する住民の医療需要に対応しながら堅実な歩みを続け、岐阜県西部の西濃圏域医療圏(人口400,000人)の中核的基幹病院として地域住民の信頼を得、今日に至っている。

鹿鳴館と市立診療所

 昭和8年1月、大垣市郭町1丁目にあった鹿鳴館を改造して診療所を建て、名称を大垣市立診療所と名付け、1月8日開所式を行った。
当時医師会は、公的医療機関の設立に反対し、医師会で病院を建てることを提案した建議書を議会に提出している。当時すでに地域医療と健康教育を考えていた医師会の幹部には敬意を表したい。さて、発足した診療所長には東大卒(大正10年)の川井一先生(後の大垣市長)が内科・小児科を担当され、外科に矢淵義正先生(皮膚・泌尿器科兼任)、調剤員に高橋重包先生、小野一夫先生、事務員に吉田初男氏、看護婦に久保田富子氏ほか3人、事務見習1人、用務員1人で出発し、診療開始の初日は患者数47人であった。
市民の医療に対する関心は日々に高まり、総合病院としての機能を要求する声もあり、同年4月1日婦人科を、その後眼科、耳鼻咽喉科を開設し、ようやく診療体制も整い、昭和10年診療所は丸の内2丁目(現在の市役所前)に移転改築した。

公立大垣病院誕生

 当時総合病院は、近郷に県立病院(現在の岐阜大学医学部)しかなく、西濃地区の住民としては公立総合病院の設立を望む声が高まり、昭和13年1月1日、大垣市ほか20カ町村診療組合公立大垣病院が誕生した。
昭和18年、農業団体法の公布によって農業会が成立し、岐阜県信用購買販売利用組合連合会立大垣病院と名称が変更となり、戦時下における地方都市の保健衛生に対し、その役割を果たした。
昭和20年にいたり、戦火は一段と熾烈を極め、病院は難をのがれるべく市の東端、藤江町5丁目に疎開診療を続けていたが、市は7月28日空襲を受け、中心部・西部がほとんど廃墟と化し、病院も焼失した。
一部疎開して難をまぬがれた大垣病院は、その診療を疎開先の旭診療所の跡に大垣病院の看板をかかげて川井院長、奥田征四郎副院長、復員してこられた先生方、嘱託の先生方により、総合病院の面目を保ちながら診療を続けてきた。

大垣病院を西濃病院と改称 初代院長に森直之先生就任

 昭和22年、川井院長は初代公選市長に当選され、その後任として名古屋大学斉藤外科から森直之先生を迎えた。
昭和23年2月、岐阜県農業会西濃病院と名称を変更、さらに昭和23年8月農協法公布施行により、岐阜県厚生農業協同利用組合連合会西濃病院と改称した。病院は、内科、外科、小児科、産婦人科、眼科、耳鼻咽喉科、歯科などの総合病院として発足し、当時は西濃地方唯一の総合病院として利用者も多く県下の厚生連立病院のなかでも経営・規模ともに抜群であった。

大垣市民病院誕生、森直之先生初代院長就任

 国民皆保険の公布を受けて公的医療機関としての市民病院の建設の要望が高まり、昭和34年10月1日病院は岐阜県厚生農業協同利用組合連合会から大垣市へと移管され、大垣市民病院が誕生した。

病院の拡充、組織医療の第一歩

    移管と並行し、病院近代化計画により建設が進められていた市民病院は、昭和36年6月現在地の南頬町4丁目に、診棟棟 (診療科目10科)1棟鉄筋2階建、病棟1棟(183床)鉄筋3階建、及び附属棟が完成、新築移転、組織医療の第一歩を踏み出した。
その後病院は、地域医療の担い手として、昭和40年3月救急病院の指定を受け、24時間体制をしき一次から三次相当までの救急医療を実施すると共に、2病棟、5病棟を新築し、人工透析、脳神経外科、循環器科、ICU・CCU等の施設を新設、CT装置、血管連続撮影装置等の高度医療に力を入れ多様化し進歩する医療に対応してきた。

森直之院長 市長に当選、名誉院長の称号を授与 松井永二院長就任

 昭和50年7月、市民の衆望を集めて当選された森市長は、病院の良き指導者でありかつ理解者でもあった。永年にわたって培われた医療の精神は松井永二新院長に受け継がれ、厳しい医療環境の中で正しい診断と良い治療、温かい看護、人の和をモットーに一丸となって医学の研鑽に務め、親しまれ、愛される病院作りに努力し、その間、給食棟、エネルギーセンター、 医師寮の改築を行い、一方では医学研究に力を入れ、学会発表に積極的に参加するなど多様化し進歩する医療に対応してきた。

基準看護の導入

 昭和54年4月から本市に県立大垣高等看護学院(現大垣市医師会看護専門学校)が設立されることになり、当院が実習病院に指定され、昭和53年6月、基準看護の導入に踏み切ることとなった。当時は深刻な看護婦不足をきたしており、既婚者も多く(54%)、現行の「変則3 交代の看護体制」をとらざるを得ない状況にあったが、現在ではこの体制も定着し職員からも好評を得ており、全国的にも労災方式とならび大垣方式といわれるようになった。

森市長・名誉院長急逝

 昭和56年3月、市長・名誉院長の森直之先生は急性心不全で急逝され、悲しみの中で同年11月、病院20周年記念式典を挙行、21世紀に向けての病院作りを全職員で誓う。

「病院第一次総合計画」による増改築工事完成

 かねて懸案であった病院の増改築工事は、昭和55年9月大垣市第二次総合計画基本答申で、圏域の中核的総合病院として地域住民の健康管理と適正な医療設備の整備拡充を図るよう提言があり、また、併せて市議会の特別委員会「市民病院に関する委員会」及び市、地元医師会、病院の三者で構成する「三者協議会」が発足、それら関係機関の努力により、病床不足の解消、ICU・CCU、手術室、検査部門の整備拡充を図るため、昭和57年12月、6カ年継続事業で管理棟(多目的棟)・2病棟・伝染病棟の増改築工事に着手した。
また、市民各層から透析部門拡充の要望があり、透析センター(15床を40床に)及び管理部門(図書室・研究室等)等の充実のため、昭和61年10月管理棟西の新築工事を継続事業に含め着工し、昭和63年1月 には総工事費用89.6億円を費やし全ての工事が完成し、昭和63年2月病床数を808床とした。さらに、昭和63年4月には新生児未熟児センター、心臓血管外科(胸部外科)、病床の増床(45床)により総病床数 を853床、診療科目の増設及び病院内の機構改革を行った。

蜂須賀喜多男院長就任

 昭和59年3月、松井永二院長退職に伴い、昭和59年4月蜂須賀喜多男副院長が院長に就任。

自治大臣表彰受賞

 昭和63年5月には、地域医療の確保に重要な役割を果たしていること、健全経営の堅持等の功績により、自治大臣表彰受賞。

診療棟及び1病棟の増改築工事完成

 昭和63年12月に策定された大垣市第三次総合計画の「医療技術の進歩による高度医療部門の整備」、「救命救急体制の充実」、「外来患者に対するサービスの向上」を図るため、平成2年5月に継続事業で着手した診療棟及び1病棟増改築工事が、平成6年8月に完成。平成7年9月24日には、岐阜県知事をはじめ 107名の来賓を招いて竣工式を行った。

中野 哲院長就任

 平成5年3月、蜂須賀喜多男院長退職に伴い、平成5年4月中野哲副院長が院長に就任。

外来診療の土曜休診実施

 平成5年10月から外来診療の土曜休診を実施した。土曜休診により医療サービスが低下を来さないよう、各診療科当番医師の明確化、救急室看護婦の専従科など救急医療体制の充実を図った。

救命救急センターの開設と増床

 平成6年10月に西濃医療圏における脳卒中、心筋梗塞など重篤な救急患者の救命救急体制の充実を図るため救命救急センターを開設した。また、救命救急センター、循環器科、内科及び新生児集中治療室で35床増床し、総病床数を888床とした。
また、平成8年12月には、地域災害医療センターの指定を受けた。

組織の整理改編と強化

 平成9年5月から精神神経科を、平成10年4月から形成外科を新設し、外来診療部門を強化した。また、平成10年4月には「中央管理部」を廃止し、医療技術者を包括して所属させる組織として「医療技術部」を、病院施設の維持管理体制を強化すべく事務局に「施設課」をそれぞれ設置した。

伝染病棟の廃止と感染症指定医療機関の指定

 平成11年3月限りで、伝染病予防法・性病予防法などが廃止され、4月から「感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律」が施行された。これに伴い、従来からの伝染病床30床を廃止し、第二種感染症指定医療機関に指定され、感染症病床6床を設置した。総病床数は864床となった。
また、増加する入院患者の治療を充実すべく、一般病床24床を同年7月から増床、総病床数888床となった。

山口晃弘院長就任

 平成12年3月、中野哲院長退職に伴い、平成12年4月山口晃弘副院長が院長に就任。

岐阜県病院協会医学会の開催

 平成13年9月30日、開催担当病院として、第18回岐阜県病院協会医学会をスイトピアセンターを会場にして開催、101病院1,200人を超える医療従事者が参加した。また、協会設立50周年記念事業として和泉流二十世宗家和泉元締氏の講演会を併せて開催した。

医療安全対策室と地域連携室の設置

 平成15年4月に医療事故の発生防止のために、医療安全管理部門として医療安全対策室を設置するとともに、医事課に医療相談窓口を開設した。また、5月には医療機関の連携をスムーズに進めるために、患者紹介、検査の依頼受付等の専用窓口として地域連携室を設置した。

総務大臣表彰受賞

 平成15年5月、社団法人全国自治体病院協議会創立50周年記念式典において、永年に亘る健全経営の維持と地域医療向上の功績により、昭和63年に続き2度目となる大臣表彰を受賞した。

日本医療機能評価機構の認定取得

 平成15年7月14日、財団法人日本医療機能評価機構の定める医療施設の認定基準を達成しているとして、当機構発行の認定証を取得した。

組織の一部改編

 平成16年4月から特定の疾患に対し、高度の専門的治療に対応するために、内科を「総合内科」「糖尿病・腎臓内科」「血液内科」「神経内科」の4科に分け医療の専門化を図った。また、医療技術部診療検査料中、輸血細菌検査室を細菌検査室とし、「薬事法及び採血及び供血あっせん業取締法」の改正に沿って輸血部門を分離し、新たに輸血センター、輸血室を設置した。

地域がん診療拠点病院の指定

 平成17年1月17日、地域の医療機関と連携し、専門的な質の高いがん医療が提供できる病院として、厚生労働省から地域がん診療拠点病院に指定された。(拠点病院の整備指針の改定に伴い、平成18年4月1日 から「地域がん診療連携拠点病院」へ名称が変更された。)

電子カルテシステムの稼動

 平成19年1月から電子カルテシステムが稼動し、平成16年5月から3ヵ年の継続事業により整備されてきた「医療情報総合システム」が完成し、本稼動となった。

3病棟増改築工事

平成14年3月に着手した3病棟増改築工事が、平成18年12月に完成し、翌月1月には供用開始した。

通院治療センター開設

 自宅での生活を継続しながら外来通院でがんの治療が受けられるよう、平成19年1月に通院治療センターを開設した。

よろず相談センター設置

 医療事故の発生防止や医療関係の相談について対応するため、平成19年4月から医療安全対策室と病診連携室及び医療福祉相談部門からなる「よろず相談センター」を設置した。

曽根孝仁院長就任

 平成20年3月、山口晃弘院長退職に伴い、平成20年4月曽根孝仁副院長が院長に就任。

救命救急センターほか第一期増改築工事

 平成20年12月、診療棟の西側地下に放射線治療装置を設置する部屋を設けるための工事に着工した。

がんサロン開設

 平成21年6月、がん患者のための施設として、3病棟10階にがんサロンを開設した。

救命救急センターほか第一期増改築工事完了

 平成22年3月、診療棟の西側地下に放射線治療装置を設置する工事が完了した。

総務大臣表彰受賞

 平成22年5月には、地域医療の確保に重要な健全経営の堅持等の功績により、2回目の総務大臣表彰受賞となった。

臨床研修評価の認定取得

 平成22年7月27日に、特定非営利活動法人卒後臨床研修評価機構による臨床研修評価を受審し、認定基準を達成しているとして臨床研修評価の認定を受けた。

地域医療支援病院の名称使用承認

 平成23年2月25日に、紹介患者に対する医療提供・医療機器等の共同利用等の実施を通じて、地域医療を担うかかりつけ医・かかりつけ歯科医等を支援する機能を備えた病院として、岐阜県知事から「地域医療支援病院」の名称使用承認を受けた。

院内保育所の充実

 平成23年5月1日に、院内保育所の運用を全面委託化し、24時間保育を導入した。また、病棟保育士を配置し、小児患者等の保育も開始した。

東日本大震災における医療救護班等の派遣

 平成23年3月11日に東北地方を中心に大地震が発生し、現地では大きな被害が出ました。その救護活動をするため、DMAT隊や医療救護班を編成し、3月から5月までの間に計4回救護班等を派遣した。

新救命救急センター開設

  平成22年7月から着工していた新救命救急センターが完成した。(1階は、救命救急センター、2階は、HCU・CCU30床、3階は、宿直室等を設置。)

組織の整理改編と強化

 平成24年4月1日より、集中治療部、医療安全管理部、栄養管理部、地域医療連携部を設置し、各部門の体制強化を図った。

臨床研修評価の認定更新

 平成24年9月1日、特定非営利活動法人卒後臨床研修評価機構による認定を更新した。

血管専門検査室設置

 平成24年10月、脈管全般を検査対象とし、総合的に血管疾患に対応する「血管専門検査室」を1病棟2階に設置した。

看護外来開設

 平成25年2月、1病棟1階に、外来看護師による術前看護センターや、認定看護師によるスキンケア・インスリン指導などを行う「看護外来」を開設した。

乳腺外科開設

 平成25年7月、外科での治療における、より高度な専門的治療に対応するため、新たに「乳腺外科」を開設した。

託児所及び寮改築工事

 平成25年7月、看護師確保のため、老朽化した託児所及び寮の改築工事に着工した。

金岡祐次院長就任

 平成27年3月、曽根孝仁院長退職に伴い、平成27年4月、金岡祐次部長が院長に就任。

託児所及び寮改築工事完了

 平成27年8月、託児所及び寮の改築工事が完了し、同年9月より、託児所及び医師・看護師住宅「Neue(ノイエ)」として供用を開始した。

3D対応内視鏡手術室完成

 平成27年11月、内視鏡手術の更なる安全性、利便性を図るため、内視鏡手術室に3Dカメラシステムを設置し、3D対応内視鏡手術室が完成した。

組織の一部改編

 平成28年4月、放射線治療に求められる、より高度な専門性に対応するため、放射線科を「放射線診断科」 「放射線治療科」に改めた。また、入院患者に対する、よりきめ細やかな薬学的指導を実施するため、薬剤部に新たに「病棟薬剤科」を設置した。

スーパーICU稼動

 平成28年12月、集中治療室の改修工事が完了し、翌年1月より、スーパーICUの稼動(特定集中治療室管理料2の算定)を開始した。

7対1看護体制導入

 患者サービスの向上を図るとともに、高度急性期病院としての医療機能を担うため7対1看護体制を導入し、平成29年6月より、一般病棟7対1入院基本料の算定を開始した。

デジタルインフォメーションシステム設置

 平成29年9月、病院情報や診療科案内など、さまざまな情報を発信することを目的に、院内4箇所にデジタルインフォメーションシステムを設置した。

がんゲノム医療連携病院の指定

 厚生労働省から平成30年10月に、がんゲノム医療連携病院として指定を受け、名古屋大学医学部附属病院と連携し、「がんゲノム医療」を開始した。

入退院支援センター(PFM:Patient Flow Management)開設

 令和元年10月、1病棟2階(旧医事課受付)に入院患者にかかわる各科での外来業務の簡略化,看護師の病棟業務の負担軽減を目的に入退院支援センター(PFM:Patient Flow Management)を開設した。職員は専属の看護師,MSW,薬剤師,管理栄養士,事務からなる。

タリーズコーヒーショップ開業

 患者さん及びその家族などの来院者の方へのサービス向上と、職員の働きやすい環境づくりを目的に、令和元年10月に、
2病棟1階にコーヒーショップを開設した。



高度型地域がん診療連携拠点病院の指定

 令和2年4月1日から岐阜県初の「高度型地域がん診療連携拠点病院」に厚生労働省から指定を受けた。地域がん診療連携拠点病院は高度型、一般型、特例型の3種類があり、高度型は診療実績が優れている、高度な放射線治療を提供できる、緩和ケア体制を整備している、などが指定の要件であり、全国 348 の地域がん診療連携拠点病院のうち高度型の指定は 47病院(令和2年4月1日時点)のみとなっている。

コロナ対応病床56床(県下最大)まで増床、発熱外来の設備新設(隔離施設)、PCR検査機器の整備、紫外線ウィルス除去装置の整備

 新型コロナウイルス感染症患者の治療に対応するため、受入病床を県下最大の56床まで増床した。また、令和2年9月に発熱外来に隔離施設を、令和3年3月にPCR検査機器の追加整備及び紫外線ウイルス除去装置を整備した。

最新放射線治療器 Halcyon の導入

 令和3年3月、東海地方で初導入となる最新型の放射線治療装置「Halcyon™」を導入した。

タイムカード導入、働き方改革の推進

 職員の労働時間および時間外勤務時間の適正な把握をするため、ICチップ内蔵のタイムカードを用いた就業管理システムを導入し、令和3年4月に運用開始した。

ISO15189の取得

 令和3年9月、臨床検査が国際標準化機構の定める国際規格の技術能力に達していると認められ、ISO15189を取得した。

オンライン資格認証システムの開始、マイナンバー活用

 令和3年10月から、個人番号カード(マイナンバーカード)を健康保険証として利用するため、オンライン資格確認への対応を完了した。

看護体制の変更(2交代制の導入)

 令和3年10月より、患者サービスの向上と看護師職員の連続休日確保を目的に、「2交代」勤務を導入した。

         



                                                            

                                             (令和3年12月分迄)